宣教への思い

「何処までもーCalling―」

という背表紙の漫画が、家の本棚に置いてありました。これは、近代宣教の父と呼ばれるウィリアム・ケアリの生涯の漫画で、僕は小学生の頃、この漫画を何度も読みました。家族もあり、英国でも評判の高い説教者であった一人の青年が、必死で宣教の必要を訴え、ヒンズー教国であるインドで生涯を遂げるという話です。なんとかして福音を届けようとするその姿には、子供ながらに心に訴えてくるものがありました。


僕の父は宣教師で、僕が5歳の時にバヌアツ共和国という国に派遣されて行きました。バヌアツのウリピブという島に住む文盲の部族が聖書を読めるよう、読み書きを教えるためです。僕はそこで西洋人からの言い伝えによって名前だけクリスチャンであった彼らが、聖書を通して自分たちの神様としてイエス・キリストと出会い、生き生きと変わっていく姿を目撃しました。そして、楽しそうに宣教の働きに携わる父親の背中を見ながら、「僕も将来宣教師になりたい」という夢を持ちました。

僕が宣教について真剣に考えるようになったのは、中学生の頃です。その頃参加でしたある集会で、「未伝部族」について話されていました。未伝部族というのは、イエス・キリストによる救いについて聞く機会のない人たちのことです(具体的にはクリスチャン人口が2%以下の部族を指す)。僕はクリスチャンの両親の元に生まれ、教会で育ち、耳にタコができるほど福音を聞かされていました。しかし、生まれてから死ぬまで一度もクリスチャンに出会わず、福音との接点がなく死んでいく人々がいるのです。信じるだけで救われる、その福音を聞く機会がないために滅んでいく人々がいるのです。

ローマ書10章13−15節にはこうあります

「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。
しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。
遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」

「この人々になんとか福音を届けたい!イエス様が全てを捨てて私にくれた命を、彼らに届けないのは間違っている!」この時そう思いました。自分の心に打ち込まれたこの思いは今日まで続いています。

「イエス様のことを聞いたことのない人々が、イエス様と出会う」これが僕のパッションです。そのために、持っているものを全て使いたいと思っています。
神様の呼ばれるところ、「何処までも」福音を届けたいです。